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丹生都比売神社 2009.5.15
丹生官省符神社から慈尊院に戻り、車に乗って丹生都比売神社に向かいます。
県道13号線を和歌山市方面に向かい、県道109号線に入ります。ここからは対面通行ができない山道になります。うねうねした道を走ること約10分。少々開けた土地に着きます。

14:20 慈尊院発 375km
14:35 丹生都比売神社着 385km

丹生都比売神社

所在 和歌山県伊都郡かつらぎ町上天野

駐車料 無料
拝観料 無料

紀ノ川より紀伊山地に入り標高450メートルの盆地天野に丹生都比売神社が創建されたのは古く、今から1700年前のことと伝えられる。天平時代に書かれた祝詞である『丹生大明神祝詞』によれば、丹生都比売大神は天照大御神の妹で稚日女命ともいい、神代に紀ノ川流域の三谷に降臨、紀州・大和を巡られ農耕を広め、この天野の地に鎮座。
また、『播磨国風土記』によれば、神功皇后の出兵の折、丹生都比売大神の託宣により、衣服・武具・船を朱色に塗ったところ戦勝することが出来たため、これに感謝し応神天皇が社殿と広大な土地を神領として寄進されたとある。
ご祭神の名前の「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味し、『魏志倭人伝』には既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載され、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社がある。丹生都比売大神は、この地に本拠を置く日本全国の朱砂を支配する一族の祀る女神とされている。全国にある丹生神社は八十八社、丹生都比売大神を祀る神社は百八社、摂末社を入れると百八十社余を数え、丹生都比売神社は、その総本社。
中世、丹生都比売神社の周囲には、数多くの堂塔が建てられ、明治の神仏分離までは56人の神主と僧侶で守られてき。
また、高野山参詣の表参道である町石道の中間にある二つ鳥居は、神社境内の入口で、まず丹生都比売神社に参拝した後に高野山に登ることが慣習であった。
鎌倉時代には、行勝上人により気比神宮から大食都比売大神、厳島神社から市杵島比売大神が勧請され、社殿が北条政子により寄進され、本殿が四殿となり、このころから舞楽法会が明治のはじめまで盛んに行われた。現存する本殿は、室町時代に復興され、朱塗りに彫刻と彩色を施した壮麗なもので、一間社春日造では日本一の規模を誇り、楼門とともに重要文化財に指定されている。
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色を塗り替えたのでしょう。やけにきれいになった太鼓橋。

c0119036_172584.jpg太鼓橋を渡ると楼門が見えてきます

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境内と楼門

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楼門から拝殿と本殿
c0119036_17253865.jpg楼門 重要文化財、世界遺産記念工作物

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本殿 重要文化財、世界遺産記念工作物
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御影堂跡
御影堂
三間、四方に三尺の縁をつけ、本尊は、大師尊像を安置していた。
源頼朝の妻、二位の尼(北条政子)によって建暦元(1211)年に建立され、二位の尼が熊野詣の帰りに天野社に立ち寄り、三、四社殿の建立寄進とともに女人禁制で高野山に登れない女人のためと、夫頼朝の菩提を弔うために建てられたといわれている。

多宝塔
二層の塔は、二間三尺五寸、周りに縁を付け、御本尊は、胎蔵界大日如来を安置し、神社周辺に建立された中心的なものだった。
十世紀中頃、高野山一度目の荒廃のとき、復興にあたった雅真僧都によって建てられ、御影堂とおなじく神社に向かって正面に建てられた。
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太鼓橋


15:13 丹生都比売神社発 385km
16:18 和歌山インター通過 426km
17:14 自宅着 498km

今回の旅はなかなか充実したものでした。
15日の天気が好くなかったのが不満ですが。。。。。
しっかりしろよ天気予報士!!
どこの天気予報でも15日は晴れだったからね。13日時点までは。

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by von-braun | 2009-05-26 18:17 | 和歌山
丹生官省符神社 2009.5.15
丹生官省符神社

弘仁七年(816)弘法大師によって創建された。
空海は、真言密教修法の道場の根本地を求めて東寺(京都)を立ち、各地を行脚し途中大和国宇智郡に入られた時、一人の気高い猟師に出会い高野という山上の霊地のあることを教えられた。
猟師は従えていた白・黒二頭の犬を放たれ空海を高野山へと導いた。高野山はは実に天下無双の霊地であり、空海は、教えくださった猟師は、神さまが姿を猟師に現し、狩場明神となり神託として一山を与え下さったものであると想念の内に感得された。
狩場明神の導きにより開山することができた高野山金剛峯寺。仏教・真言密教の布教の基となった狩場明神との運命的な出会い。空海はその思いを政所として慈尊院を開いたとき、参道中央正面上壇に丹生高野明神社(現丹生官省符神社)を創建奉祀し、諸天善神への祈願地としてこの地を天と神に通じる地、即ち神通寺の壇とし、慈氏寺の壇と併せて萬年山慈尊院と称した。
空海によって創建鎮座爾来、御社号も丹生高野明神社、丹生七社大明神、丹生神社、丹生官省符神社と変遷し、県内外を問わず尊崇を受け官省符荘(荘園)の総社として栄えました。紀伊名所図絵(天保年間)では、数多くの御社殿等が立ち並び荘厳を極めていましたが明治維新後、神仏判然令(神仏分離令)等により多くの建物は取り除かれ、天文十年(1541=室町時代)に再建された本殿の内、三棟(国指定重要文化財)が往年の姿をとどめ今日に至っている。

所在 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院

c0119036_17114221.jpg慈尊院境内から119段の石段を上ります。

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丹塗りの門をくぐると丹生官省符神社。
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拝殿
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拝殿から本殿
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本殿 重要文化財、世界遺産記念工作物
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第一殿
丹生都比売大神 (丹生明神) 天照大御大神の御妹
高野御子大神 (高野明神) 真言密教の守護神 丹生都比売大神の御子 導きの神 
天照大御神 (天照大神) 日の神

第二殿
大食都比売大神 (気比明神) 五穀酒造の神
誉田別大神 (八幡大神) 応神天皇に坐して武勇の神
天児屋根大神 (春日大神) 神事祭祀の神

第三殿
市杵島比売大神 (嚴島明神) 福徳寿の神

次はいよいよ最後、丹生都比売神社

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by von-braun | 2009-05-26 17:21 | 和歌山
慈尊院 2009.5.15
これから世界遺産3件をまわります。

13:17 藤原武智麻呂墓出発 349km
13:40 真田庵着 
13:50 真田庵発
13:55 慈尊院着 375km

慈尊院

所在 和歌山県伊都郡九度山町慈尊院
位置 北緯34度17分42.69秒
山号 万年山
宗旨 高野山真言宗
本尊 弥勒仏

『紀伊山地の霊場と参詣道』を構成しています。

弘仁7年(816年)弘法大師(空海)が高野山開創に際し、高野山参詣の要所にあたるこの地に表玄関として伽藍を草創し、一山の庶務を司る政所、高野山への宿所、冬期の避寒修行の場所としました。
承和元年(834年)に讃岐国(香川県)から高野山を訪れた弘法大師の母公が、女人禁制のため入山を許されず、翌年にこの地で亡くなったことから、弘法大師は母公のために弥勒堂(御廟)を造られ弥勒菩薩坐像を安置しました。
空海の母がこの弥勒菩薩を熱心に信仰していたため、入滅して本尊に化身したという信仰が盛んになり、慈尊院は女人結縁の寺として知られるようになり、女人の高野山参りはここということで「女人高野」とも呼ばれています。
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境内の様子
中央は鐘楼
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境内の様子
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弥勒堂 重要文化財、世界遺産記念工作物
鎌倉時代後期の建築。宝形造、檜皮葺き。
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三重塔
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四国からの観光バスが来てました。

次は丹生官省符神社

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by von-braun | 2009-05-26 17:03 | 和歌山
真田庵 2009.5.15
五條ICから京奈和にはいり、高野口ICで降りる。そのまま南下し紀ノ川を渡り、少し奈良方面へ戻ると
伽羅陀山 善名称院
またの名を真田庵。
13:17 墓出発 349km
13:40 真田庵着 距離メモるの忘れた

善名称院
所在 和歌山県伊都郡九度山町九度山
山号 伽羅陀山
宗派 高野山真言宗
本尊 地蔵菩薩

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善名称院は、戦国時代最後の武将、真田昌幸・幸村父子隠棲の屋敷跡として県の史跡に指定されています。
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創設は、1714年(寛保元年)大安上人によります。六文銭の紋が刻まれた門をくぐると、八つ棟造りの重厚な三層城閣風の本堂が建ち、軒の瓦には菊花の紋章が入っています。本尊は地蔵菩薩で、境内には開山堂(大安上人の廟)、土砂堂、宝物資料館、真田昌幸の墓、それに与謝蕪村の句碑があります。真田祭開催時期(4月から5月)にかけて九度山町の町花であるぼたんの花が咲き誇ります。

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真田地主大権現 - 真田家の宝物である毘沙門天と真田三代の御霊を合祀。

その他にも
雷封じの井 - 信繁が真田屋敷に落ちた雷を井戸に封じ里人を救ったと伝わる。
真田昌幸の墓
真田家臣一族の墓
などがある。

また、真田宝物資料館もあり、真田昌幸・信繁の九度山での生活をテーマに、信繁が愛用したと伝えられる槍先や鎧兜などの武具や書状、肖像画などが数多く展示されている。また、当時の真田家の生活を支えた真田紐や高野紙製造用具なども展示されている。

入場料 - 大人200円

真田昌幸
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従う。家康の東下により、石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始める。昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われ宇田氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁(幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返す。
東軍先鋒・徳川秀忠の部隊およそ3万8000の大軍は江戸を発して中仙道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始する。昌幸は僅か2000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦が行われる。秀忠軍は美濃への着陣を促され、上田攻略を諦める。上田合戦は悪天候の影響もあり、結果的に秀忠軍を9月15日(10月21日)の本戦へ遅らせた。
関ヶ原の戦いでは西軍が敗れ、昌幸、幸村父子は、東軍に属した長男の信幸(後の信之)の助命嘆願で赦免され高野山に蟄居を命じられた。高野山は女人禁制で、昌幸、幸村父子は蓮華定院(真田家菩提寺)に仮寓し、妻子は九度山に置いた。のちに九度山に移る。
九度山では、国許から援助を受けつつ真田庵で暮らす。後世に便利物と名高い真田紐を作成して販売したという。晩年には赦免を願っているが病を得て、慶長16年(1611年)に九度山で病没。享年65。

蓮華定院の現在の本堂・庫裡は萬延年間に真田家により再建されたもの。


次は慈尊院、丹生官省符神社

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by von-braun | 2009-05-25 01:02 | 和歌山
藤原武智麻呂の墓
榮山寺の裏山にあるのですが、徒歩で登ると20分かかるとのこと。
軽自動車なら車でいけるということなので道を教えてもらう。山を右へ右へと進路をとる。途中でパイロットになり、この道であっているのか不安になり、ハイキング中の方に尋ねる。榮山寺で聞いたとおり、本当に右へ右へ進んだら到着した。

12:56 榮山寺出発 344km 
13:12 墓到着 349km

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こんな道です。
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c0119036_0311172.jpg藤原武智麻呂墓 国史跡
奈良時代に編纂された藤原氏の人物伝『藤原家伝』には、武智麻呂は平城京北方の佐保山で火葬されたと記されており、『家伝』成立後に改葬された地と推定される。
麓の榮山寺が武智麻呂の創建によると伝えられ、国宝の八角堂はその次男仲麻呂の建立とされているので、武智麻呂の改葬も仲麻呂の意思と考えられる。


次は和歌山県に戻り、真田庵


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by von-braun | 2009-05-24 00:45 | 近畿
榮山寺 2009.5.15
奈良の道路事情はお粗末で、国道は狭く、県道も混雑するのが分かったので、駐車場のオジさんに五條へ行くにはどういったらよいかと尋ねた。
案の定国道24号線(京奈和)を通るのがよいとのこと。

11:23 法隆寺駐車場出発 300km

スムーズに24号線に入るにはやはり西名阪から入るのがいいだろう。ちょっと遠回りになるけど。
西名阪に乗り、郡山で24号線に入る。京奈和を終点まで行き、葛城山を見ながら進んでいると、右折せずに直進してしまった。

ここは県道35号線。まあ、御所市の市街地を過ぎたあたりで24号線に合流すりゃいいか。
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葛城山を真正面に見て進む。もうすぐ24号線に合流。
南の方は天気がまだくずれていない模様。
道は間違ったがこっちの方がスムーズだったのではないかと感じました。

24号線に入り南下。京奈和(五條道路)には入らずそのまま旧24号線を進みます。五條の市街地には入り、今井町交差点を左折。しばらく直進すると榮山寺到着。
12:29 榮山寺到着343.6km


榮山寺

所在 奈良県五條市小島町
山号 学晶山
宗派 真言宗豊山派
本尊 薬師如来  

駐車料 無料
拝観料 400円

到底、国宝2件、重要文化財5件を所有する寺には見えない。
全体的にひなびた感じがする。観光客も私一人。
落ち着いた雰囲気といえば、そうなのだが。。。。。。

近くの金剛寺の方が客足が多そうである。榮山寺にはホームページもないし。。。。

音無川(吉野川)を眼下に望む榮山寺は藤原南家の菩提寺として鎌倉時代になるまで栄華をほしいままにしました。創建は養老3年(719)藤原武智麻呂公によるといわれています。
古来は前山寺あるいは崎山寺と呼ばれ、いつしか「榮」の字が当てられたといわれています。「崎」とは岩が川の瀬に張り出したところ、そこには美しいよどみができ、瀬音が消えます。吉野川を「音無川」と呼ぶのはこのためで、川の水色は深みのある瑠璃色、青磁色をしています。
この榮山寺には特筆すべきものも多く、法隆寺夢殿とともに奈良時代を代表する国宝「八角堂」や宇治平等院の鐘とともに「平安三絶」の鐘に数えられている梵鐘は、表面の銘文は撰者が菅原道真で筆者が小野道風と伝えられます。
c0119036_2291716.jpg梵鐘 国宝
高さ157.4cm、口径89cm、青銅製。4面に菅原道真の撰、小野道風の書と伝えられる陽祷の銘文があります。龍頭の精巧なこと、鐘身の美しさも含めて、京都神護寺、宇治平等院の鐘とともに日本三名鐘の一つとされています。

※小野道風(おののみちかぜ)
小野妹子の子孫で、小野篁の孫に当たる。
平安時代前期、10世紀に活動した能書家であり、それまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されている。後に、藤原佐理(ふじわらのすけまさ、「ふじわらのさり」とも)と藤原行成(ふじわらのゆきなり、「ふじわらのこうぜい」とも)と合わせ、「三蹟」と称されている。

c0119036_2293841.jpg石塔婆と本堂
石塔婆 重要文化財
七重石塔婆。方形の台石の上に建ち、奈良時代の建立で、我が国のもっとも古い石造塔の一つである。総高360cm。石質凝石灰岩。

c0119036_22101267.jpg八角円堂 国宝
武智麻呂の子、仲麻呂が父母追善供養のため天平宝字年間(757-765)に建立。夢殿に似たこの堂は、内壁などに極彩色の仏画が残り、天平時代を代表する唯一のものともいわれています。

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八角円堂の天井c0119036_22104885.jpg
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石灯籠 重要文化財
弘安7(1284)年の銘があり、しかも各部とも当初の姿をよく残している。総高243cm。榮山寺形といわれる。

南北朝時代には南朝の後村上・長慶・後亀山天皇の行在所が置かれていたため「榮山寺行宮跡」として国の史跡に指定されています。

藤原武智麻呂(ふじわら の むちまろ)
680-737
藤原不比等の長男で、藤原四兄弟の一人。藤原南家の祖。

藤原仲麻呂(恵美押勝)
706-764
藤原武智麻呂の次男。
天平9年(737年)、天然痘の流行により父の武智麻呂を含む藤原四兄弟が相次いで死去し、藤原氏の勢力は大きく後退。代わって橘諸兄が台頭して国政を担うようになった。
天平勝宝元年(749年)、聖武天皇が譲位して阿倍内親王(仲麻呂の従姉妹)が即位(孝謙天皇)すると、仲麻呂は大納言に昇進。次いで、光明皇后のために設けられた紫微中台の令(長官)を兼ねた。仲麻呂は更に中務卿と中衛大将も兼ねた。光明皇后と孝謙天皇の信任を背景に政権と軍権の両方を掌握した仲麻呂は、左大臣橘諸兄と権勢を競うようになった。
天平勝宝7歳(755年)、諸兄が朝廷を誹謗したとの密告があり、諸兄は恥じて官を辞職し、2年後に失意のうちに死去した。
天平勝宝8歳(756年)、聖武太上天皇が崩御し、遺言により道祖王が立太子された。だが天平宝字元年(757年)3月、道祖王は喪中の不徳な行動が問題視されて廃太子された。代わって、仲麻呂の早世した長男真従の未亡人(粟田諸姉)を妃とする大炊王が立太子される。
仲麻呂の台頭に不満を持ったのが橘諸兄の子の奈良麻呂であった。奈良麻呂は反乱を企てるが、同年6月、密告により露見。奈良麻呂の一味は捕らえられ、443人が処罰される大事件となった。奈良麻呂、道祖王、大伴古麻呂らは拷問で獄死、事件に関与したとして仲麻呂の兄の右大臣豊成も左遷された。
天平宝字2年(758年)、孝謙天皇が譲位して大炊王が即位(淳仁天皇)した。淳仁天皇を擁立した仲麻呂は太保(右大臣)に任ぜられ、同年8月25日(10月5日)、恵美押勝の名を与えられる。
天平宝字4年(760年)、仲麻呂は皇族以外で初めて太師(太政大臣)に任ぜられる。同年、光明皇太后(叔母)が逝去した。皇太后の信任厚かった仲麻呂にとっては大きな打撃となる。
天平宝字5年(761年)、淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させる。唐の制度にならって保良宮を「北宮」、難波宮を「西宮」とする。
天平宝字6年(762年)、仲麻呂は3人の息子の真先、訓儒麻呂、朝狩を参議につけた。
この頃、病になった孝謙上皇を看病した弓削道鏡が上皇に寵愛されはじめた。仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせた。これが孝謙上皇を激怒させ、上皇は出家して尼になるとともに天皇から大事・賞罰の大権を奪うことを宣言。孝謙上皇の道鏡への寵愛は更に深まり、天平宝字7年(763年)、少僧都とした。
孝謙上皇・道鏡と淳仁天皇・仲麻呂との対立は深まり、危機感を抱いた仲麻呂は天平宝字8年(764年)、都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使に任じ、さらなる軍事力の掌握を企てるが、謀反との密告もあり、淳仁天皇の保持する御璽・駅鈴を奪われるなど孝謙上皇に先手を打たれて、仲麻呂は平城京を脱出する。子の辛加知が国司の越前国に入り再起を図るが官軍に阻まれて失敗。仲麻呂は近江国高島郡の三尾で最後の抵抗をするが官軍に攻められて敗北する。敗れた仲麻呂は妻子と琵琶湖に舟をだして逃れようとするが官兵石村石楯に捕らえられて斬首された。
その後兄豊成が廟堂に戻って右大臣に復帰するも、藤原氏の主流は式家、北家へと移って行くことになる。


次は藤原武智麻呂の墓

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by von-braun | 2009-05-24 00:20 | 近畿
中宮寺 2009.5.15
中宮寺

所在 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北
山号 法興山
宗派 聖徳宗
本尊 (伝)如意輪観音

拝観料 500円


中宮寺は聖徳太子の御母穴穂部間人皇后の御願によって、太子の宮居斑鳩宮を中央にして、西の法隆寺と対照的な位置に創建された寺です。
その旧地は、現中宮寺の東方三丁の所に土壇として残っていたのを、先年発掘調査したところ、南に塔、北に金堂を配した四天王寺式配置伽藍であったことが確認され、それは丁度法隆寺旧地若草伽藍が四天王寺式であるのに応ずるものと云えるでしょう。しかもその出土古瓦は若草伽藍にはなく、飛鳥の向原寺(桜井尼寺)からのものと同系統のものであることから、法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として初めから計画されたものと思われます。国宝菩薩半跏像(寺伝如意輪観音)は其の金堂の本尊であり、天寿国曼荼羅は、其の講堂本尊薬師如来像の背面に奉安されたものと伝えられています。
その後、平安時代には寺運衰退して、宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して本尊のみ居ますと云った状態でした。鎌倉時代に入って信如比丘尼の尽力により、天寿国曼荼羅繍帳を法隆寺宝蔵内に発見して中宮寺に取り戻すなど、いくらか復興を見たものの、往時の盛大には比すべくもありませんでした。その後度々火災に会い衰微し、無住となりました。
なお、その後殆ど寺観を留めず、大部分の佛像をはじめ鐘楼などが法隆寺に移管されました。そして室町時代の天文年間には、後伏見天皇八世伏見宮貞敦親王皇女、慈覚院宮尊智女王(慶長7年薨)が御住職遊ばされる事になり、取り敢えず法隆寺東院の山内子院を拝借し、旧地の伽藍石を庭に配し、整備し、次第に寺観を整えたのではないかと思われます。以来尼門跡寺院としての法統が今日迄伝えられています。
宗派は鎌倉時代頃は法相宗でしたが、その後真言宗泉湧寺派に属し、戦後派法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流することになりましたが、依然大和三門尼寺の随一としてその伝統を伝えています。
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中宮寺は法隆寺の東院の四脚門をくぐっらなければたどりつけません。
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本堂
国宝の木造菩薩半跏像 (伝如意輪観音)はこの本堂で観ることができます。

東洋美術における「考える像」で有名な、思惟半跏のこの像は、飛鳥時代の彫刻の最高傑作であると同時に、わが国美術史上、あるいは東洋上代芸術を語る場合にも欠かすことの出来ない地位を占める仏像であります。また国際美術史学者間では、この像のお顔の優しさを評して、数少い「古典的微笑」(アルカイックスマイル)の典型として評価され、エジプトのスフィンクス、レオナルド・ダ・ヴィンチ作モナリザと並んで「世界の三つの微笑像」とも呼ばれています。

次は榮山寺

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by von-braun | 2009-05-23 15:20 | 近畿
ユニクロオープン
2009.5.22 ようやく田辺にユニクロがオープンしました。
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さっそく今日行ってきました。

3,4年前は和歌山市内や泉南のイオンにあるユニクロに良く行きましたが、最近はご無沙汰。

近くにあったらあんまり行かないかも。
だって、人と同じ服ってイヤやし。。。。。
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by von-braun | 2009-05-23 14:46 | 和歌山
法起寺 2009.5.15
法隆寺iセンターで自転車を借り、一路法起寺へ。

法起寺
山号 岡本山
宗派 聖徳宗
本尊 十一面観音菩薩
所在 奈良県生駒郡斑鳩町大字岡本

拝観料 300円

法起寺は別名、岡本尼寺、岡本寺、池後寺、池後尼寺と呼ばれています。
この寺は、推古14年(606)に聖徳太子が法華経を講説されたという岡本宮を寺に改めたものと伝えられ、法隆寺、四天王寺、中宮寺などと共に、太子御建立七ヵ寺の一つにかぞえられています。
創建の由来については『聖徳太子伝私記』に記録する当寺の三重塔にあった露盤銘によって判明します。それによると、推古30年(622)2月22日、聖徳太子はその薨去に臨み、長子の山背大兄王に宮殿(岡本宮)を改めて寺とすることを遺命し、山背大兄王は大倭国田十二町、近江国の田三十町を施入したといわれています。
その後、舒明10年(638)に福亮僧正が聖徳太子のために、弥勒像一躯と金堂を造立し、天武14年 (685)には恵施僧正が宝塔の建立を発願し、慶雲3年(706)3月に塔の露盤を作ったとされています。
この露盤銘に記すように近年境内の発掘調査の結果、前身建物の遺構の一部が確認されており、法起寺の建立以前に岡本宮と見られる宮殿が存在していたことが明らかとなりました。 同時に、中門を入って右に三重塔、左に金堂、中央正面奥に講堂があり、廻廊は中門左右から堂塔を囲み、講堂の左右に接続する様式の伽藍であったと推測されています。
当寺のことは、『正倉院文書』や『日本霊異記』にも見られ、奈良時代には相当栄えていたようですが、平安時代から法隆寺の指揮下に入り、寺運も徐々に哀微しましたが、鎌倉時代には講堂や三重塔が修復されています。しかし、室町時代に再び衰え、江戸時代のはじめごろには三重塔のみを残すのみであったといわれています。
その荒廃を憂い、当寺の再興を発願した寺僧の真政圓忍とその弟子たちは、延宝6年(1678)に三重塔を修復しました。それ以降も、寺僧たちの努力によって浄財を集め、元禄7(1694)年に講堂を再建、文久3年(1863)に聖天堂を建立し、現在の寺観が整えられています。
明治維新後は、本寺法隆寺とともに真言宗の所管となりましたが、明治15(1882)年法隆寺が興福寺とともに法相宗に独立したのにともない、法相宗の小本山となった。
しかし、昭和25(1950)年、法隆寺が聖徳宗を開宗したため、当寺も聖徳宗の本山の一つになっている。
昭和471972)年には三重塔の解体修理に着手し、50年に完成したのに続いて、53年には講堂の修理を行い、57年には重要文化財の十一面観音菩薩像を安置する収蔵庫を新設しています。

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こちらにも世界遺産法隆寺地域の仏教建造物の一角を占める建造物があります。

c0119036_2222320.jpg国宝にして世界遺産三重塔
日本最古にして最大の三重塔です。


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境内の様子
聖天堂(左)と講堂
c0119036_22223648.jpg本尊 木造十一面観音菩薩立像 重要文化財

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国宝、世界遺産登録物件がある寺だが、荒れている。
受付の方に尋ねると、法隆寺から少し離れているのと、駐車場がない、バスも近くまで来られないことなどから、それほど観光客は来ないとのこと。
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庫裏

近所のおばあちゃんに声をかけました。若い子やおばちゃんは苦手やけどおばあちゃんは得意!

聞き取った内容は、
法起寺には住職がいない。檀家もない。寺の行事などは法隆寺から僧侶がやってきて執り行う。管理は法隆寺がしている。などなど

おばあちゃんに、「法隆寺ももうちょっと法起寺も整備したらいいのにね」というと、笑っていた。

ちなみに法起寺のURLはhttp://www.horyuji.or.jp/hokiji.htmです。
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法起寺遠景

ところで法起寺、昔は「ほっきじ」と読んでいたが、世界遺産登録時に「ほうりゅうじ」「ほっきじ」の法の字に一貫性がほしいとのことで「ほうきじ」になったらしい。

ちょっと待て、そんなしょうもないことで名前をかえるのか?

別に一貫性は必要ないやろ。法隆寺が聖徳宗を開く前の宗派、法相宗は「ほっそうしゅう」やろ。法の字を「ほっ」って読んでるやん。

和歌山県の橋本市には隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)がある。国宝の人物画像鏡を所蔵する由緒のある神社なのだが、所在地が橋本市隅田町。この隅田町(すだちょう)がくせもの。
橋本市は大阪のベッドタウンとして人口が増加し、ほぼ半分が旧市街以外に住む新住民。この新住民、隅田(すだ)を「すみだ」と読んでしまう。隅田川の「すみだ」のほうがなじみがふかいんでしょうね。

それに対する橋本市の対応がおかしい。

正しい読み方を周知するのがあたりまえじゃないでしょうか?失敗したのかも知れませんが。。。。。 

しかし。。。。。
隅田(すだ)小学校の児童はすみだっ子と称している。 
隅田地区公民館(すだちくこうみんかん)にはすみだホールがある。
橋本市立すみだ保育園なるものまである。隅田町(すだちょう)に。
あきれて開いた口がふさがらない。
歴史のある地名ですよ。新住民が「すみだ」と間違うからといって迎合する必要があるのでしょうか?

ちょっと論点が違うかもしれないが、ようするに歴史を大事にしろっていうこと。

一貫性がないや読みにくい、読み間違うといった理由で簡単に名前を変えるな!!


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by von-braun | 2009-05-23 00:10 | 近畿
法隆寺 2009.5.15
いよいよ法隆寺です。

5:45 ホテル発 273km
6:20 法隆寺着 300km


法隆寺(斑鳩寺)
所在地 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内
宗派 聖徳宗
寺格 総本山
本尊 釈迦如来

駐車料 500円
拝観料1000円

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西円堂前より西院伽藍の五重塔と金堂
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東院伽藍の夢殿

法隆寺には建造物では18の国宝、29の重要文化財があり、これら47件の文化財が世界遺産法隆寺地域の仏教建造物として登録されている。もちろん記念工作物として。


法隆寺詳細を見たい方は、下の法隆寺探索記をクリック

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by von-braun | 2009-05-20 22:56 | 近畿