郡上八幡
ず~と行きたかった郡上八幡です。

郡上郡八幡町は合併して郡上市になりました。

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結構な雪でした。今冬3回目らしい。
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慶長六年(1601)に八幡領主遠藤慶隆は、東常縁の玄孫が出家して、正勧坊正欽と号し、飛騨の照蓮寺に留錫していると聞き、招請し当寺を創建して、菩提所となし、その影像を安置した。美並村乗性寺とともに郡上における東氏有縁・浄土真宗照蓮寺派の触頭の寺院として重きをなした。遠藤慶隆の墓がある。
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防火バケツ?
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小駄良川
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大乗寺
越前朝倉家の清水三右衛門尉が、主家没落後、京都日蓮宗妙覚寺に随身しその後小駄良中桐村に法華坊として隠棲した。慶長八年(1603)に八幡領主遠藤慶隆は、現今の地へ堂舎を建立した。この地は中世の尾壺城跡であった。山門は享和四(1804)年諸堂再建の折りのものである。郡内総守護鬼子母神を祭祀した境内は質実素朴な構えである。
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郡上踊り銅像
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酒店看板
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郡上八幡城
戦国時代末期の永禄2年(1559年)、遠藤盛数が八幡山の上に砦を築いたことが郡上八幡城の起源である。遠藤盛数が郡上八幡城を築くまでは、郡上一円は東氏によって支配されていた。東氏は、郡上八幡の町を挟んで反対側にある東殿山に東殿山城を構えていたが、1559年(永禄2年)、遠藤盛数によって滅ぼされた。遠藤氏は東殿山城を奪い、郡上一円を支配したものの、この城を好まず、東殿山城を攻撃したときに陣営を張った八幡山に城を築いた。 その後盛数の長男慶隆が城主となったが、本能寺の変後羽柴秀吉と対立する織田信孝の傘下に属していたため追放される。慶隆追放後稲葉貞通が一時城主となり、この際に天守や二の丸などが建造されている。その後関ヶ原の戦いの功により再び慶隆が城主となり、以来廃藩置県まで郡上藩の藩庁となる。5代藩主常久まで遠藤氏が城主となり、以下井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と城主が変遷。青山幸宜が藩主の際に明治維新を迎え、廃藩置県により廃城となる。廃城の翌年、石垣のみを残し取り壊わされる。
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現在の天守は、大垣城(当時)を参考に昭和8年(1933年)に造られた。模擬天守としては全国的にも珍しい木造。石垣が岐阜県史跡に、天守閣が郡上市有形文化財に指定されている。内部は歴史資料館などとして利用されている。山城であり、市街地を流れる吉田川のほとりに聳える。城自体は小規模だが、城下から眺める城の風景や、城から見下ろす城下町のたたずまいは大変美しい。城の入り口までは徒歩でも自動車でも行くことができ、山麓には山内一豊と妻千代の像がある。

千代は遠藤盛数の子の説が有力。
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宗祇水

環境省が選定した「日本名水百選」の第1号に指定されたことで有名になった湧水。
本来は、由緒正しき史跡。
文明3年(1471)連歌の宗匠・飯尾宗祇が郡上の領主である東常縁から古今伝授を受けて京へ戻るとき、当時の2大歌人であるふたりが、この泉のほとりで歌を詠み交わしました。

「もみじ葉の 流るるたつた白雲の 花のみよし野思ひ忘るな 常縁」

「三年ごし 心をつくす思ひ川 春立つ沢に湧き出づるかな 宗祇」

惜しむ別れを清泉に託した2首の和歌が残されています。


田辺にも「宗祇庵」なるものがあります。

宗祇は姓は飯尾、応永二十八年(一四二一)有田郡藤並(近江説も)に生まれ、連歌師として一生を旅に過ごした。伝説の多い人で、田辺でも 「世を旅に宿を苅田のほとりから」という連歌の発句を残したといわれる。
その時、宗祇が泊まったとすれば、この上野山城の中腹がもっともふさわしいとして、安永五年夏、田辺の俳人・玉置香風が「宗祇庵を建て文人の会所に提供した。
同時に建てたのが「宗祇翁旧蹟」の碑で、側に刻まれている 「 それも流れ これも流れて 秋の水 」の句は、香風の師匠であった二南斉智角のもので、ちょうどその年七回忌にあたっていた。香風は宗祇・智角の二人の先達を顕彰する意味をこめてこの宗祇庵を開いたのである。
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南天玉

「難を転ずる縁起物」、郡上市は南天の房出荷量日本一。
造り酒屋の軒先にぶら下がる「杉玉(酒林)」。緑の杉玉を吊るすことで新酒ができたことを知らせるものですが、郡上八幡ではこの「杉玉」とともに、「南天玉」が存在します。新年を迎える商店などの軒先に吊るされます。
「難を転ずる縁起物」としてだけではなく、真っ赤な南天玉が徐々に黒く変わっていく様子から、「商売繁盛」を願って飾られるものとか。
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宮瀬橋より新橋
下を流れるのは吉田川。
新橋はよく飛び込んでいる橋です。
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郡上八幡旧庁舎記念館
昭和11年に建てられた洋風建築で、木造2階建て、床面積は約800㎡。外壁は板張りに縦長の端正な窓、屋根組みは当時最新の技術であったトラス工法が用いられています。
 平成6年まで八幡町役場として使われていた。
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郡上本染
こいのぼりの寒ざらし。
この日は作業をしてない日なんですが。。。。。

この写真は新橋からとったもの。
下を見た感想は?

軽いな!
高さは13mらしいが、これくらいなら軽く飛び込めます。
子どもの頃飛び込んでた橋の方が高い。
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遠郷山安養寺
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安養寺の開基は、近江源氏佐々木高綱の三男高重が出家して、親鸞上人の弟子となり法名を西信と賜い、康元元年(1256)江州蒲生郡に一宇を建築し安要寺と称した。
安要寺六代仲淳が、美濃安八大榑へ移り蓮如上人より安養寺の寺号を受けた。なお、ここを中心に越前穴馬や、郡上方面に布教を始めたが、この頃仲淳が本願寺から授かったものの一つに、上部に正信偈の一部、裏面に大谷本願寺釈実如が明応2年(1493)9月18日の大榑庄安養寺釈仲淳に、この御影を授けるという実如直筆の裏がきのある親鸞聖人御影も伝わっている。
七代了淳の時代、越前穴馬から、天文5年(1536)大島村野里へ移転し、天正6年(1588)稲葉定道が郡上領主になったとき八幡中坪村園野へ移り、さらに、本堂焼失を期に明治14年に八幡城三の丸跡地(現在地)に移転、明治23年本堂を再建した。その後、大正8年の大火で焼失、昭和11年再建され現在に至っている。
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by Von-Braun | 2010-02-09 21:16 | 東海
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