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藤原京 2009.5.14
道草を食ったので、当初の予定通り長谷寺に向うことにする。

10:01 當麻寺出発 160km
県道30号線を南下して165号線に入り、長谷寺に向うつもりでしたが、南方面行きも混んでいる。すぐに左(東)へハンドルを切った。
O型の一人旅。気ままです。

ちなみにカーナビを持っていない私は。大体の位置関係と幹線道路の線名を覚えて目的地にたどり着きます。當麻寺から長谷寺は東南東方面。国道165号へ入ればいい。東へ向って南に行けば自然と国道165号線にたどり着くはず。きわめてアバウト。これでたいした間違いは起こさない。

おっと先に大和高田で166号線に合流。このまま行けば24号線を通って165線につくはず。
橿原で無事165号線に乗ったとたん、藤原宮跡の看板が。。。。。
ここも時間があればよってもいいなと思っていたところなので寄ることにする。う~ん、なかなか長谷寺につかへんな。この時点で橿原市今井町は頭から消し、次善の策として大宇陀へ行くことにする。今井町は古い商家、大宇陀は宿場町。昔の雰囲気を味わうならどっちでもいいやろ。


距離はメモするの忘れました。
10:43到着
11:35出発

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藤原京 特別史跡

690年(持統4)に着工され、飛鳥浄御原宮から694年(持統8)に遷都。
710年(和銅3)に平城京に遷都されるまで持統・文武・元明に渡り、都であった。
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藤原宮跡
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藤原京からの畝傍山(199.2m)
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藤原京からの天香具山(152.4m)
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持統天皇の歌碑 醍醐池の脇にあります。

春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山 (万葉集・巻1・28)

春過ぎて 夏来たるらし 白たえの 衣ほしたり 天の香具山

ちなみに、新古今集、百人一首では

春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山

となっています。

立夏は5月5日だったので、まさに今の時期か?二十四節気は江戸時代かららしいが。。。。
白妙の衣はほしていませんでした。

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醍醐池北からの耳成山(139.7m)

持統天皇(鸕野讚良皇女)は、天智天皇の娘で、母は蘇我倉山田石川麻呂(蘇我馬子の孫)の娘、遠智娘。父の同母弟(正史では一応同母弟とされている)、大海人皇子(天武天皇)の妃となり、草壁皇子をもうけた。
天智天皇の晩年には、皇位継承をめぐって夫(大海人)と父(天智)の関係が悪化。
大海人皇子は東宮を辞し、鸕野讚良もともに吉野に逃れた。
壬申の乱に勝利し、夫が即位すると皇后となる。夫の没後は、姉(大田皇女)の遺児・大津皇子を退け、自分の息子である草壁皇子を東宮としたが、草壁は早世。数年の称制を経て、自身が女帝として690年、飛鳥浄御原宮で即位した。
697年、草壁皇子の遺児、軽皇子を15歳で立太子させた。同年譲位し、自らは天皇を後見した。

その軽皇子(文武天皇)の擁立に功績があり、その後見として政治の表舞台に出てくるのが藤原不比等。
後室の橘三千代(県犬養 三千代)の力添えにより、皇室との関係を深め、文武天皇に娘宮子を嫁がせ首皇子(聖武天皇)を産ませた。さらに三千代との間の娘である光明子を聖武天皇に嫁がせたが、光明子は不比等の死後、不比等の息子の藤原四兄弟(武智麻呂:南家、藤原房前:北家、宇合:式家、麻呂:京家)の力によって光明皇后となり初の人臣皇后の例となる。

藤原不比等が活躍(暗躍?)したのがこの藤原京。歴史に思いを馳せながら52分も費やしました。



次こそは長谷寺

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by von-braun | 2009-05-17 01:10 | 近畿
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